戦前と戦後の違いは?不動産の概念はどのように変化したか

2018年で第二次世界大戦の終戦後73年となります。

終戦時に焼け野原だった日本は73年経った今では復興を終え、国際社会への復帰も果たしています。

ここでふとした疑問ですが、現在も「戦後」なのでしょうか?

そもそも「戦前」や「戦後」について、時間的な定義や何が違うのかご存知でしょうか?

今回は戦前と戦後の日本の違いや、不動産の概念がどのように変わったのかを解説していきます。

「戦前」と「戦後」の境界線は?

戦前と戦後の違いについて考える前に、このふたつがどこで分けられるかについて先に明確にしておきましょう。

実は「戦後」がいつからか、というのに明確な定義はありません。

いくつかのターニングポイントでその境界が分けられた曖昧なものなのです。

最もメジャーな「戦後」の定義は、「1945年8月15日以降」が「戦後」である、という考え方でしょう。

「戦前」「戦後」の頭文字である「戦」とは第二次世界大戦のことです。

第二次世界大戦で日本は当時の国連を脱退し、ドイツ、イタリアと枢軸と呼ばれる派閥として戦い、敗戦したことはご存知の通りのことと思います。

その敗戦が決まったのが「1945年8月15日」です。

いわゆる終戦記念日です。

同年の8月6日に広島に原爆が投下され、同月9日に長崎に原爆が落とされてから僅か6日後の終戦でした。

日本の終戦は昭和天皇によるラジオでの発表で国民に伝えられ、この放送は玉音放送と呼ばれました。

天皇は肉声で国民に太平洋戦争の無条件降伏宣言を発表し、日本の敗戦が決定したのです。

この降伏宣言でもある玉音放送のあった日が1945年8月15日でした。

なので日本では、1945年8月15日に第二次世界大戦が終わり、敗戦国となったことが確定しました。

この瞬間から戦後処理が始まったので、「戦後」とは、この終戦記念日以降である、という考え方になります。

他にもいくつか「戦後」の定義はありますが、大抵の場合終戦記念日以降と考えて問題ないでしょう。

戦前のスタート、戦後のゴールは?

「戦後のスタート」は終戦記念日から、という考え方が一般的です。

そして「戦後」とは、現在進行形で今も続いている、という考えが一般的です。

ここで終わり、という明確な基準は、戦後のスタート以上にないため、戦後はまだ終わっていない、ということが出来ます。

では「戦前」とはいつからいつまでを指すのでしょうか。

この「戦前」は「戦後」以上に区分が曖昧で、スタートもゴールも個人の捉え方に左右される言葉です。

戦前の終わりに関しては、日本が本格的にアメリカと交戦状態に入り、第二次世界大戦に参戦した太平洋戦争の開戦日とされるのが一般的です。

その開戦日は日本軍の真珠湾攻撃が開始された「1941年12月8日」です。

つまりこの日が戦前のゴールとされています。

「戦時中」という言葉があることを考えれば、少なくともこの日には確実に「戦前」は終わっていると言えます。

ですが真珠湾攻撃の前の日中戦争や満州事変などの時点でもう戦争は始まっている、という考えもあります。

そのような人の中では戦前のゴールはもっと早いのですが、少なくとも真珠湾攻撃の頃には戦前は終わっているのは確かです。

そして「戦前のスタート」はもっと曖昧です。

人によっては「大政奉還後の明治維新から」「1889年の明治政府の憲法発布から」など様々で、あるいはもっと前のことも指すと言う人もいます。

ですがこちらも少なくとも、1937年の日中戦争の引き金である盧溝橋事件が始まった頃には、もう戦前とは言わないのではないのか、と考えられているようです。

総括すると「戦前」「戦時中」「戦後」はそれぞれ以下のように考えられます。

戦前:少なくとも日中戦争~真珠湾攻撃まで、始まりの時期の定義は曖昧
戦時中:真珠湾攻撃~玉音放送まで
戦後:玉音放送~現在も続く

このように違いを区別していけばおおむね問題ないでしょう。

戦前の日本の歴史的背景

ここまでの章では「戦前」「戦後」について時間の軸で見た違いについてご説明しました。

ではこれからは中身の違いと不動産の歴史に目を向けたいと思います。

戦前と戦後では日本は国名から違います。

戦前は「大日本帝国」
戦後は「日本国」

です。

まずこのあたりの時系列と歴史的背景を整理します。

・ペリー来航が1853年
・江戸幕府が滅んだのは1868年
・伊藤博文が初代内閣総理大臣になったのが1885年
・大日本帝国憲法が発布されたのが1889年

ペリーはその圧倒的な軍事力を背景に徳川幕府に日本の開国を迫りました。

その手始めとして治外法権などの不平等な条件の明記された条約に同意させ、日本を半植民地として支配しようとしました。

従わなければ勝ち目のない戦争が始まるため、幕府はペリーの言うとおり、不平等条約(日米和親条約)を結んでとりあえず開国しました。

幕府は最悪の戦争を避けて、その後のことを考える時間猶予を得るしかなかったのです。

後にイギリスなど他の国とも不平等条約を結ばされます。

この江戸幕府の姿勢に不満を持ったのが、天皇のいる朝廷です。

幕府とは元々天皇の代行で政務を行うことを許された部署であり、幕府も天皇の部下という立場です。

その幕府が天皇の意に沿わないことをしたことで、幕府は朝廷に反逆したと考えられました。

それが乗じて、これからは天皇の意を汲めない弱い幕府ではなく、天皇中心の国を作ろうという訴えが起こりました。

これが「尊王論」です。

この「尊王論」と、日本にやってくる外国人を排斥しようという「攘夷論」が重なったものが、幕末によく聞く「尊王攘夷論」です。

この思想が国中に波紋をもたらし、朝廷は幕府を反逆者として排斥する大義名分と部下、兵隊を得て、幕府を倒すに至ったのです。

戦前の「大日本帝国」という言葉の捉え方

帝国とは植民地を持ち、複数の種族を統治する国であり、皇帝はその統治者です。

ですが、大日本帝国設立時は植民地も異民族も統治していないので、天皇も「皇帝」の定義からは少し外れます。

では何故日本は「帝国」を名乗ったのでしょうか。

この場合の日本の名乗る「帝国」とは「帝国主義を歩む国」と考えるのが最も適当でしょう。

帝国主義とは軍事力を以って領土を広げ資源などを得て、それによりもたらされた富で更に軍備を強化し国土を広げていく、という思想です。

この帝国主義を、大日本帝国建国当時より1世紀ほど早く、アメリカやイギリスが推し進めていました。

ペリー来航からの明治維新とは、このままではその流れで日本も武力により植民地化されてしまう、という考えにより進められた革命でした。

だから外国人を日本の中に入れてはいけない、という「攘夷論」がブームとなったのです。

では先述の「尊王論」と合わせた「尊王攘夷論」の結果はどうなったのでしょうか。

結論から先に言えば、やっているうちに無理だと日本人が気付いていき、攘夷論は沈静化しました。

外国の言うことに従う幕府を馬鹿にしていたものの、実際に自分達も外国のことを知るうちに、今のままでは絶対に勝てないということを思い知らされていきます。

ただ、現時点では外国人を日本から追い出すことは無理でも攘夷という考え自体がなくなったわけではありませんでした。

これから外国の知恵を取り入れて力をつけて、将来的には外国に負けない国を作って日本の植民地化を防ごう、という考えに変わっていったのです。

今はとりあえず開国して外国のやり方に従っておこう、という考えに軟化していったわけです。

ただし彼等は、それは幕府主導では実現せず、幕府に開国させたらすぐ植民地化されてしまうとも考えていました。

なので開国は、そのような攘夷のやり方を説く人達が主導になって行うために幕府を倒したのです。

そのような人達が主導になって行った日本の軍国化が「富国強兵」です。

その政策が実を結び、日本は大日本帝国発足後50年でロシアや中国を破るなどの戦果を挙げ、軍国主義の道を歩みました。

しかし第二次世界大戦で敗戦国になった大日本帝国は、戦後帝国主義の推進を断念し、民主化の道を歩み始めることになります。

戦前の日本から不動産の在り方も違いが出てきた

今までの章で、日本という国は「戦前」に含まれる時代に、諸外国に負けない強い国を欲していたことをご説明しました。

その考えをもとに、不動産の在り方も今までの時代と違いが求められるようになります。

最初に明治時代以前の不動産の歴史をざっくりとですが説明いたします。

聖徳太子の時代には、土地とは国のものであり、国が民に貸し与えるものという考え方でした。

しかし自分の土地にならない土地に民が住みつかなかったので、次第に開墾した土地を荘園として私有としてもよいという考えに変わっていきます。

これが鎌倉時代、源頼朝が作った封建制度につながっていきます。

しかし国は民の土地の私有を認めると、その管理を中央政府ですることが困難になります。

そのため、守護・地頭という土地の管理者と徴税者を作り、土地の監視を行いました。

現代風に言うと、守護とは管理人、地頭は税務官のようなものです。

時代が進むと今度はこの守護・地頭が預かりの土地の占有をはじめ、力をつけていきます。

こうした存在の武士が後の戦国大名の起こりです。

そしてその支配を完了した豊臣秀吉が太閤検地を行ったことにより、荘園は消滅し土地の支配、年貢徴収は大名の仕事となりました。

江戸時代になると土地の大半は武士と商人のものとなり、庶民の土地は人口比に対し圧倒的に少ないものでした。

その時代に町人たちは土地の所有権を定めた制度を作り、その土地に密集した住宅地である長屋を建て、庶民に一角を貸し与えるというスタイルが生まれました。

これが戦後の現代にもある賃貸不動産の原型と言われています。

その制度も明治維新後に見直され、大きく改正されます。

強い国を作るために、税収により資金が必要な日本政府は土地の測量を行い、土地に関わる税収を以下のように切り替えました。

・収穫高→地価
・物納→金納
・納税者は耕作者→土地所有者

この改正を「地租改正」と言います。

所有者が納税するということは、土地の所有権が法的に認められたことを意味します。

江戸時代は長屋はあったものの、基本土地は幕府のものとされていました。

市民が土地の所有権を持ち、売買や賃借を行えるようになったのは明治時代の、この戦前の起こりの頃だったのです。

しかしまだこの時代も、地主とその土地を開墾する小作人の関係という土地の仕組みは変わっていませんでした。

小作人は地主の税収に苦しみ、農奴化して土地に縛り付けられていたのです。

戦前と戦後の不動産の違いは

戦前の関東大震災(1923年)や戦時中の空襲などにより、木造住宅が壊滅的な被害を被ったことから、耐震、耐火構造が求められるようになったのも戦後からです。

戦後の日本は、日本の降伏条件として受託した「ポツダム宣言」の実行を余儀なくされました。

その内容は帝国主義、軍国主義方針の放棄から崩壊した中央政権の整備などです。

その実行を関し、管理する連合国軍最高司令官総司令部、通称GHQによりメスを入れられたひとつに、不動産の制度もありました。

GHQは土地を小作人に安価で売却し、地主と小作人という約1,000年続いた封建制度を破壊し、自作農中心に変容させました。

この改革が農民の地位を向上させ、土地に縛られた生活をする必要がなくなりました。

そして、不動産も今までと大きな違いを見せるようになります。

戦後は国や地主ではなく、お金を持つ法人が不動産の主導権を握ります。

経済発展のために工場やビル、工業地帯やそれに伴う労働者の居住施設など、農地だけではない土地の活用が活発的に起こりました。

そのような経済成長の恩恵を受けた庶民も、土地を所有し自分の家を建て、所有するということもできるようになりました。

そして不動産は同時に「担保」としても信頼のある商品価値を見出されました。

銀行は不動産を担保にお金を貸し、法人は借りたお金で新たに不動産を立て利益を得るという形が生まれました。

不動産の投資信託など、不動産は金融とも密接につながっていき、単に住んだり切り開いたりするだけでなく、融資の材料にも変容していったのです。

現代では不動産は二次的、三次的な価値を追求された金融商品という側面を見せるようになったのです。

戦前に所有権の概念を作り、戦後に活用が多様化した不動産

江戸時代に大まかな形で認められていた土地の所有権が、明治時代に公に認められたことが、戦前の不動産の大きな変化でした。

とは言えこの時期はまだ農地として耕す以外の価値はまだ見出されていませんでした。

戦後になり経済発展や焦土化した国の整備のため、農地以外の土地の活用が見直され、庶民も土地に縛られない新しい生活様式が築かれていったのです。